澤村勘兵衛勝為(さわむらかんべえかつため)


  ※『じゃんがら念仏踊り』のきっかけになった人物です。

澤村勘兵衛勝為の生い立ちには様々な説があります。

慶長十八年(一六一三年)現在の千葉県君津郡佐貫町で生まれました。
十才のとき、平字才槌小路に移ってきたと言われています。
勘兵衛は兄の九左衛門重勝(後で甚五衛門と改まる)と共に平藩主内藤忠興公に仕えました。
寛永十年(一六三四年)忠興に仕えて、郡奉行を命ぜられました。


勘兵衛は、内藤公のお気に入りの家臣で、下に厚く、上に忠の全くの義人でした。
強固な意志の信念を曲げない、こうと思ったら必ず実行する性格で、情に深いところは藩民から厚く慕われ、尊敬されていました。

慶安三年の六月ごろ、雨が全く降らず、いわき地方が大干ばつ(日照り)に見舞われていました。
農民たちは、水田の用水を天水(雨水や近くの沢水を蓄えた、ため池)に頼るしかなく、日照りが続くと、作物はすぐに被害をうけ、農民たちはそのたびに大きな苦労と貧困に見舞われていました。

磐城平藩の郡奉行の勘兵衛が
藩主・内藤忠興公の命令で、被害の様子を調べている帰り道、泉崎の光明寺の住職(お坊さん)歓順からこの日照りから、作物と農民を守るために「下小川・関場より、平久保を掘り、神谷、泉崎を通し仁井田四倉と山の麓を引いたなら必ず水は流れる」と歌で示され、工事にとりかかったと言われています。
その工事により出来たのが小川紅筋です。

光明寺の僧歓順の歌〜

「稲のため 江水ひかれよ 関場より用ゆる水は 山のふもとを」

「民のため 江水ひくなら 勝為よ名は末代に 寺も栄えん

工事〜

慶安四年二月十五日に起工する準備がされました。

工事見張所(今の工事事務所)を平久保に設置し、勘兵衛はそこの二階の一室を借り寝泊りしていました。
工事が始まり、何百人のもの人たちが働きました。

みんな、汗だくになって喜んで働いていたそうです。

途中、試しに低い土地に土を盛って作った部分に水を通したところ、水漏れのため二度三度と壊されてしまい、このことに気を落とした勘兵衛は自殺を決意し、家に帰りました。
母は慰めながら「まこも(水辺にはえるショウブに似た草、むしろをあむのに用いる。食用にもなる。)を敷き、その上に粘土を塗ってみなさい」と進めました。
それを実行してみると、見事に水漏れはおさまり通水できました。
勘兵衛は大変喜びました。

しかし、それから幾度となく難工事が続きました。
工事の最中に大量の蛇があらわれ、それに恐れて掘るのをやめる人たちも出てきました。

そこで、勘兵衛は蛇塚を築き傍に利安寺とういうお寺を建て、供養しました。
それから、不思議なことに蛇は、ぴたりと姿をけしたそうです。

勘兵衛は、工事は始めてから三年三ヶ月をかけてようやく完成しました。

しかし、このような、立派な仕事を成し遂げた勘兵衛に対し、人々はその手柄をたたえるべきなのですが、この功績をねたんだ者の「言いつけ」により、勘兵衛がかってにお寺を建て寄付したのはいけない、というような理由で、明暦元年(一六五五年)七月十四日、四十三才の若さで切腹という無実の罪をとげてしまいます。
しかし、追放になったという説もあります。

『じゃんがら念仏踊り』の起源は、勘兵衛の霊をなぐさめるための踊りでした。

 

「澤村神社」

澤村神社 いわき市下神谷にあり、水に恵まれず、干ばつに苦しんだ農民のために立ち上がり、かんがい用水の工事に命をかけたこの偉人「澤村公」をまつり、その功績を後の世代まで伝えるため、明治九年に建てられました。


※左の写真をクリックすると、澤村神社の場所がわかります。

磐城小川江筋沿革史編纂委員会 「磐城小川江筋沿革史」より